― 廣峯神社 ― 弐
ひろみねじんじゃ
2021年2月8日 15:00 御参拝
―34話―の続きです。
拝殿の左隣に、新しい境内摂社がありました。
官兵衛神社です。
神社内 本殿前中央にクロス(十字架)が・・・
なんとも不思議な感じです。
黒田家の家紋「藤巴」です。
もう一つ「黒餅」という家紋もあります。(日の丸の〇の部分が黒塗りの家紋です)
明治までは「黒餅」でしたが、日の丸に似ていることからか以降は「藤巴」の方を家紋としています。
黒田官兵衛はキリシタン大名でした、天正15年(1587)、播磨地方は
「キリシタン王国」とも言われていたそうです。
姫路の黒田官兵衛/室津の小西行長/明石の高山右近/三木の前野長康
と4名のキリシタン大名に、ここ播磨地方は守られていました。
時を同じく1587年、秀吉が「バテレン追放令」を出しキリシタン弾圧時代が始まります。
ただ1600年に池田輝政が姫路城城主となった当時、姫路城の紋瓦の中に十字架の入った瓦を使用している事や、1610年には大阪から宣教師が播磨を訪れており、当時播磨にはキリシタンが500名程いたと言われている事から、まだこの頃は積極的なキリシタン弾圧は普及していなかったようです。
ただ池田氏から本多氏へ藩主が交代してから、本格的なキリシタン弾圧の時代へと入って行ったと書いてありました。
黒田官兵衛が姫路で活躍したのは4年程だったようですが、官兵衛の影響力は大きく
官兵衛が去った後でも、この播磨地方では多くの「隠れキリシタン」が存在した事実があったのだそうです。
1639年からの鎖国によりキリシタンや宣教師がいなくなった状態の中でも、キリスト教を信じる人たちが存在して、明治までの長い間迫害を受けながら信仰を守り続けていった人たちがいました。
その人たちが命がけで造り上げたのが、「十字架地蔵」と呼ばれる遺跡だそうです。
お地蔵様の背に十字を彫ったものを信仰の拠り所としていたらしいです。
弾圧が厳しくなると、十字が「T字」になりやがて「一文字」へと変化しながらも建立され続けたとの事。
島原の乱の天草四郎時貞は有名なので「隠れキリシタン」という名称は知ってましたが、この播磨地方にそんな遺跡があるなんて今日まで知りませんでした。
ひょとしたら私たちの近くのお寺や道端のお地蔵様の背中にも、何かの痕跡があったりして・・・
― 6話― の私が見たマリア様の夢の話で出て来る夢前町は、この廣峯神社の近くなんです。
なんだか不思議・・・
官兵衛の祖父である重隆が廣峯神社の社家に出会い、社家の勧めもあって廣峯神社に参拝します。(社家とは日本の身分のひとつで代々特定神社の祭祀を世襲してきた氏族)
この時代の参拝の有様は、山頂まで登ってから神社周辺に点在した社家屋敷に寄って一息つき、それから社家の主に案内されてはじめて本殿に参ると言うのが一般だったそうです。
この時に仲良くなった社家の人達が重隆を助けたいと思い、黒田家秘伝の目薬を神社の御札といっしょに配りたいと申し出ます。
この目薬は農家の人々に評判が良く、大量に売れたことから黒田家はたちまち財を成しました。
そして、その資金を破格の低金利で農民に貸し、その代わりに黒田家に奉仕する人を集め、家来を300人程も抱えるようにまでなりました。
この話が廣峯神社の大別当職であった廣峯長職へと伝わったことで、良き人物がいると長職の実兄で御着城城主・小寺政職へと紹介され、小寺家へ仕えることとなったそうです。 やがて姫路城 城主へと。
それから後に生まれた官兵衛があの秀吉からも怖れられる軍師として名を挙げていくのですが、それは官兵衛自身のもって生まれた才能と廣峯神社の社家の人達から得た様々な知識と陰陽道によりその素質を高めていったからなのでしょう。
あっそう・・・官兵衛の洗礼名 「ドン シメオン」 です。
秀吉が「バテレン追放令」を出した際に棄教しているのですが、それは表向きでしょう。出家後には黒田如水と名を変えています。
黒田官兵衛のお話で長くなりましたが、廣峯神社編 まだまだ続きます。