― 吉備津神社 ―
きびつじんじゃ
2022年2月15日 13:30 御参拝
相殿神 大日本根子彦太瓊命 おおやまとねこひこふとにのみこと
細比売命 くわしひめのみこと
稚武吉備津彦命 わかたけきびつひこのみこと
〝石上布都魂神社〟の次に向かったのが、備中国一宮である〝吉備津神社〟本来は吉備
国の総鎮守の神社であったことから、三備一宮とも呼ばれているようです。
大吉備津彦命以外、初めて御名前を聞く神様がお祀りされております・・・
広い駐車場に車を停めて、まず目に入ったのがこちらの手水舎。
主祭神である大吉備津彦命は第七代考霊天皇の息子であり、あの卑弥呼ともいわれてい
る大倭迹々日百襲比賣命の弟とされ、古代吉備地方の統治者であった鬼神〝温羅〟を退
治されたとの伝承から、鬼退治で有名な日本昔話〝桃太郎〟のモデルとなった神様とい
われています。
—温羅の伝承—
伝承によると、温羅は異国から飛来して吉備に至り、製鉄技術を吉備地域へもたらして
鬼ノ城を拠点として一帯を支配したといわれています。
吉備の人々は都へ出向いて窮状を訴えたが、温羅はヤマト王権が派遣した武将から逃げ
おおせて倒せなかった。
このため崇神天皇は孝霊天王の子で四道将軍の一人の五十狭芹彦命(吉備津彦命)を派
遣した。
討伐に際し、五十狭芹彦命は現在の吉備津神社の地に本陣を構えた。温羅に対して矢を
1本ずつ射たが温羅はその都度石を投げて撃ち落とした。そこで命が2本同時に射たと
ころ、1本は撃ち落とされたが、もう1本は温羅の左目を射抜いた。すると温羅は雉に
化けて逃げたので、五十狭芹彦命は鷹に化けて追った。さらに温羅は鯉に身を変えて逃
げたので、五十狭芹彦命は鵜に変化してついに捕えてたところ温羅は降参し〝吉備冠
者〟の名を五十狭芹彦命に献上した。これにより五十狭芹彦命は吉備津彦命と呼ばれる
ようになるのでした。
手水舎で身を清めたら、国宝である拝殿・本殿へ向かいます。
北隋神門・・・国の重要文化財です。
隋神門から見上げました・・いい雰囲気です。
やはり三備一宮、平日ではありますが御参拝される方々が次々とやって来られます・・
そして本殿です。
こんな大きくて、美しく迫力のある本殿は見たことがありません・・・
現在の社殿は、度重なる火災を経て明徳元年(1390年)、後光厳天皇からの勅命を
受けた足利義光によって再興されました。
出雲大社にはまだ行ったことはありませんが、本殿の大きさは出雲大社の2倍くらいあ
るようです!
一童社・・・お祀りされている神様は、学問と芸術の守護神である菅原道真公と天鈿女
神。
そしてここから〝吉備津神社〟で本殿の次に有名なんだろうなと思われる、回廊に向か
います。
先が見えません・・・
回廊の途中に、吉備津えびす宮がありました。
えびす宮から回廊を振り返ると・・こんな感じ。
そしてまた途中にあります岩山宮、吉備国の地主神である、建日方別神を祀っておりま
す。
途中にこんな塔もありました・・・
この塔の裏にあったのが、この小さな洞穴でしたが、中には何もありませんでした。
左から〝春日宮〟 〝大神宮〟 〝八幡宮〟。
そして回廊の果てにあったのがこちらの神社です。
こちらが本殿です。
もともとは吉備津彦命の父君孝霊天皇をお祀りしていましたが、明治末年に新宮社と内
宮社を合併されたので、現在は吉備津武命や百田弓矢姫命をあわせて合祀されているよ
うです・・・
最後に愛嬌のある神馬です・・・
境内の広さと本殿はとても見応えのある神社でしたが、広すぎて何か見逃しているよう
な気がしてやみません・・・
そしてこれから、この日最後の神社???に向かいます。
本日も最後までお付き合いいただきありがとうございました!